げぷろぐ

好きなことをダラダラ

8年前のこと

 2011年3月11日、私は通っている予備校の自習室の一室で、同じゼミ生の友達とダラダラと自習をしていた。

 予備校はちょっと特殊なところで、検索したらすぐわかるけど、高校を中退した人に向けて、高卒認定資格、受験勉強、それからゆるく根本的な社会生活のサポートなんかをしているところだった。高認(いわゆる旧大検、高校を卒業していない者が大学受験資格を得ること)の資格は6教科で計8~10科目をマークシート方式で受験して、それら全科目で6割程度の正解が取れれば合格できるのだけど、私は1回目の受験では苦手な理数系の2科目を落としてしまい、結局2回に分けて高認資格を取得した。

 2011年の3月、その2回目の試験に通って高認がとれていたのか、まだ高認の勉強中だったのかは忘れてしまったのだけど、とにかくその年には大学受験はしていなかった。でも、何か勉強をしていた。

 

 当時の私は予備校の授業に毎日毎週きちんと出るということができなくて、でも上京して一人暮らしをしているから、予備校に行かないとひとりぼっちでさみしいので、なんとなく居場所として通っていた。授業に出ない、もしくは色々と事情があって(メンタルの持病や身体の病気で高校を中退した人も多く、私もそうだった)予備校に中々来られない人も多かったし、そのことを責められるような場所ではなかった。

 一限の朝の授業に出られないタイプの生徒同士で夕方からなんとなく集まって遊んでみたり、受験のための勉強以外の、例えば読書や料理のサークル的な場所(「ゼミ」と言うことになっていた)に出てみたりしていた。

 そのゼミで、私は演劇系のゼミに出席していたので、年度末に活動の総まとめとして劇の発表会に出た。地震の一週間前のことだった。

 三島由紀夫の戯曲で、戦災で視力を無くし、両親とはぐれ、別の夫婦に里子として迎えられた男が実の両親と再会するも、戦火の記憶に再会の喜びは遮られ、男の消えた視界の中には恐ろしい風景が焼き付いていることが語られる、みたいな物語だったと思う。

 

 その劇の発表会から一週間くらい後。

 2011年3月11日14時46分。

 予備校の入っているビルにも、地下で爆発が起きたような大きな衝撃が訪れた。友達と学習机の下に隠れ、揺れが収まるのを待とうにも、その揺れは長く、なくならなかった。スタッフの外に避難しろという声が聞こえ、学習机から出ると、天井の空調の枠が一部壁から外れていた。まだビルはグラグラと大きく揺れていて、足を踏み外さないようにしながらも必死に早足で3階から階段を降りていった。ビルから出ると、予備校の関係者以外にも、道路を面した建物の中から他にも人が出てきていた。

 あまりにも長い揺れ。コンクリートの地面が揺れる感覚がずっと続いている。都心の細長いビルが、真ん中からぽっきりと折れてしまうのではないかと言うほど、右に左に振り子のように揺れていた。高層ビルの高層階の窓際のカーテンが、天井に着くのではないかと言うほど揺れているのも見えた。路上に出た友達と、手を握り合って放心していた。

 揺れが一旦収まって、予備校のビルの中に戻った。実家の家族に携帯から電話したけれど、繋がらなかった。電車も止まっているから、猫の待つ一人暮らしの家に帰ることも出来ない。電気も落ちている。都心のインフラは完全に止まっていることを知った。ツイッターで確認したらコンビニの棚の商品がほとんど無くなっているらしい。東北沿岸には津波。迎える不穏な知らせに暗い気持ちになった。予備校の外に出る勇気はなかった。停電している中、知り合いの生徒が携帯のワンセグ放送(当時はまだスマホが普及しだしたばかり)で気仙沼の火災の映像を見せてくれた。陽の落ちた気仙沼の町で炎だけが一面に広がる画面は、世界の終末を見せられているようだった。

 夜、予備校の固定電話で順番に生徒たちが保護者と連絡を取り合っていた。私も家族に連絡をしてみた。幸い、みんな無事だと言われ、後日私の家まで来てくれるということだった。一人暮らしの家に帰る電車の路線は復旧していたけれど、昼間一緒に自習をしていた友達の家までの路線は未だ止まったままで、居てほしいと言われたわけでもないのに私は予備校に留まって一夜を明かした。

 次の日の朝、明朝の新宿には人が全然いなくて、ガラガラの電車に乗って家まで帰った。停電の事情がどうだったかは忘れてしまったけど、マンションのオートロックはおそらく開いたのだと思う。帰宅して部屋に入ると、テレビが床に倒れ、本棚が壁から大きく離れていた。部屋の中に猫の姿がなく、呼んでも返事がない。しばらくパニックになっていたが、こたつ布団を捲って見ると、そこに猫はいた。緊張したままで、呼んでもまったく返事をしない。友達は他の人と一緒に居られたのだから、猫のために早く帰ればよかったと後悔した。

 テレビでは首相官邸からの定期的な会見と津波の映像が繰り返し流され、CMは全てACの広告に差し替えられていた。逃げようとする人や車が黒い波に飲み込まれさらわれていく映像ばかり見ていたせいで、気分が恐ろしく落ち込んでいた。原発の爆発についての報道。ツイッター掲示板を見ていると危機感がこれ以上ないほど募った。

 放心したまま時間が過ぎていって、いつの間にか母が家に来ていた。母は仕事で来ていた都内で被災して、仕事先から近いホテルのロビーで一晩を過ごしたと言うことだった。

 結婚して家を出ていた姉は、まだ赤ん坊の子供と夫と一緒に、原発由来の放射性物質の飛来を警戒して関西に移動したと言うことだった。私と両親もそうしようと言うことで、荷物をまとめて、猫を置いていくのは辛かったけど、地震原発についての報道がまとまるまでの2,3日の間ということで家を出た。

 関西までの通り道で、高速から見た巨大工業地帯の景色には感動した。和歌山県まで来て、当日宿泊の出来る旅館に泊まった。旅館の人に関東から来たんですよ、地震原発がね、と話すと、ああ、そうらしいですね、と、とてものんびりとした様子だった。

 

 関西から帰ってきて、予備校の知り合いや友達と再会した。原発を恐れて避難していた私はとても少数派だったらしいことを知った。ゼミを通した友達らと街中を歩いている中、雨が降ってきた。傘を持っていなかった友達の一人が、放射能雨だ、と雨に濡れながら笑っていた。