げぷろぐ

好きなことをダラダラ

生活というもの

家事の話。

家事と一括りにされる労働には、基本的に金銭的な対価が支払われることはありません。家事代行業者とかはいるけど、専業主婦/主夫と呼ばれる立場の人であれば日本人の大多数は金銭での対価を得て家事労働に従事するということはないのではないか。

また、金銭の発生しない労働には、情緒面でのやり取りを得る機会も一般的な労働と比べて著しく低い。と、私は思う。

なぜなら家事労働というのは『家族』と呼ばれる共同体の中で行われるものだから。

『家族』共同体の中では金銭を介して労働や努力の価値を測るという行為が基本に置かれていない。

家に帰ったら当たり前に洗濯物が綺麗に洗われて干されて畳まれている、食事が用意されている、温かい湯船が用意されている、そんなことには金銭での利益は発生しない。

(でも、快適な生活を送れることは、金銭の発生する社会で生きる人々の生活の質を上げ支えている。社会の役に立っている)

 

そして金銭を介せずして行われる行為には尊敬や感謝という気持ちが発生しにくい。と勝手に私は思っている。

だって社会のオモテ面で働く人々はお金を得るために働いているから。

お金を貰えない仕事なんてする人は中々いないでしょう。

ボランティアだって本来有償でするべきものだと言われるようになった時代です。

 

でも。

家事は違う。

 

お金を貰えなくても、共同体内の人間同士が潤滑に日常生活を送り、快適に暮らすために労力を費やす。

体も動かすしマルチタスクでいくつかの家事をこなすことも当たり前なのに、お金をもらって依頼として(主婦/主夫が)こなすことはない。

例えば会社組織のように、二人家族、三人家族、○人家族…共同体の規模も色々あって、家事労働、またはその部分を担う人の数も労働者のスキルの差もあるのでしょうけど、そこにはやはり金銭は発生しないことがほとんど。

 

カネカネ言って何が言いたいの、と言うと、そこはまあ、家事労働ってあんまり報われないよね、って言う気持ちだけなのですが。

当たり前すぎて。だって生きてるだけでお金がもらえる社会じゃないからね。

ベーシックインカムが当たり前に導入されたら社会の家事に対する視線も変わるのかしらとか思ったりもするけど、今はそう言うの考えられる時代じゃない感)

 

要は労働の価値を決める視点が、いわゆる主婦/主夫と家の外で働く人とでは違ってしまうのも問題だよね、金銭の発生しない行為にも等しく尊敬と何かしらの(何だろう)対価を払われることがあって然るべきではないかな、と言うことです。

(電車でお年寄りや子供や妊婦さん、身体や精神に困難がある人に席を譲る行為は褒められるものでしょう?それくらいの譲り合いの精神に対する"普通の尊敬"が欲しい。だって家事労働ができるくらいの人であれば実社会でも労働力として十分な頭数になれるけど、あえて家の中での労働に注力すると言う選択肢があるのだから)

 

…終わり。