げぷろぐ

好きなことをダラダラ

無題

人間は、言葉を交わさずに意思疎通をするのはある程度の限界がある。ましてや、目の前の相手の感情をそのまま体感することはできない。体の痛みも、心の痛みも。そうしたつくりが人を守っている。目の前で死にかけるほどの怪我人がいたとしても、私はその痛みを感じずにすむ。目の前で泣いている友達がいても、泣かずにその子の手を取ったり、その子を背負ってみたりできる。人に全部が伝わらなくても、人同士、それに生かされている。

家族のひとりが死んだ時、私含めほかの家族もみんなすごく悲しくて、息をして、立っているのがやっとだったと思う。みんながみんな、その痛みを共有して体感していたら、みんなショック死していたんじゃないか。

だから、私の悲しい気持ちが私だけのものであることは、誰かが生きていくための役に立っている。私の子供まで、こんな気持ちにならなくてすむ。でも私の悲しい気持ちは、私のことを思ってくれるだれかにとっての痛みになってしまう。だから元気でいたい。だから、悲しい気持ちでいることを、申し訳なく思う。

子供ができる前、死にたくないけど、いざとなったら死んでしまってもいいのかと、浅はかに考えたことがあった。家族のひとりが死んだ時、それは間違っていたとわかった。家族が死んだら、悲しいのだ。あんなに悲しい思いを、もう誰にもさせちゃいけない。だから生きなくてはいけない。

繰り返しそのことを、辛くなるたび思い返す。私は死んではいけない。健康にならなくてはいけない。がんばらなくちゃいけない。本当は嫌だけど。そして、家族も友達も恋人も大好きなのに、こんな気持ちになる自分が本当に嫌だ。

私は幸せにならなくてもいいから、子供が幸せにならないと、死ねない。死んじゃいけない。背負いきれないくらい、子供のことが大事だ。こんなに悲しい場所に生まれさせてしまってごめん。

どうして人は死んでしまうんだろう。どうして生きなくてはいけないんだろう。悲しくて怖いことだらけだ。