げぷろぐ

好きなことをダラダラ

無能病

無力感は他者のために感じるものだと思うけど、今私が感じているのは自分への希望のなさ。そう、それは無能感。

今日は朝起きるのが遅れて、息子を保育園の送迎バスへ送ることが出来なかった。夏休みで、いつもの担任の先生たちとは違うアルバイト(学生さんかな)の先生たちが息子たち園児の相手をしているそうなのだけど、いつもの先生たちがいないことで息子は保育園への登園を嫌がっている。仮病を使って保育園に行きたくないとごねる息子の姿が、幼少時の自分と被る。

息子は家で過ごし、私は遅く起きて洗濯やキッチンの洗い物や料理をこなし、冷蔵庫の中を整理して、軽く運動もして。やるべきことをやったと思う。主婦としてならまあまあ。けど、どこからかやって来る気分の波には抗いきれていない。鬱のビッグウェーブに飲まれず、自分の舵をとってなんとかしようぜ、と思ってはいる(家事だけに)。

やるべきことをやってもどこか自分に希望が見出せないのはなぜだろうか。仕事をして一日を終えて、それでも終わらない夏休みの宿題を前にしたような気がする。無能感。そうかこれは鬱か。気づかないうちにもう精神は蝕まれている。

誰かが悪いわけじゃない、私が悪いわけじゃない。けどそれはもうあるから困るのだ。何がトリガーになっているのかはわからない。もうすぐ始まる短い学生の時間も、怖いわけじゃない。心の底ではどう思っているかわからないけど、怖いものじゃないと、頭ではわかっている。

 

家事をこなしていると、妖精になったような気分になる。人間が寝ている間に、枕元に金貨を置いていってくれたり、朝起きたら素敵なプレゼントを用意してくれたりする妖精。

キッチンのシンクの三角コーナーの生ゴミを捨てて綺麗にする。冷蔵庫の中のいらない食材や賞味期限の切れた調味料を捨てる(ついでに容器を洗って、その容器を不燃ゴミに分けたりもする)。なくなった水出し麦茶の補充をする。いつでも食べれるように、作り置きの料理が出来ている。洗濯に出された汚れた衣類を洗って乾かして綺麗にする。いつの間にか家の人は快適に過ごしている。

誰に言われるわけでもないけど、上記のそれらをしないと人間らしい生活にはならない。汚いより、不味いより、快適に暮らせたほうがいいだろう。誰に感謝を伝えられるわけでもないけど、子供や、父や、母、同居している人が少しでも幸せに暮らせるなら。やる意味はある。

自分がそうしたいから、という意味では、きっと私はまだ善い行いはできない。あなたのためにするの、そう思ったら押し付けになる。いちいち感謝することを求められてちゃ、私だったら疲れてしまう。

だから、何か言ってほしいわけじゃない。私がしたいって思ったからしただけ。これは妖精さんのオシゴト。これでいいのだ。

 

だけど、家族のために、自分のためにするのに、無能感が残るのはなぜ。仕事をしていた時と、今の感情はとても似ている。何が足りないのだろう。これは、誰が悪いわけでも、私が悪いわけでもない、ビョーキだからしょうがない。毎日を頑張る。ただそれだけ。

でも、壁打ちで終わってしまっては、何かを成してもかなしくなる。独りは、気づかなければ幸せだと思うけど、気づいてしまったら意味を見出せなくなる。

でも、独りだとしても、私はそこに意味を見出している。この無力感との戦いの中で、私は家族の役に、少しでも立っている。だから、生きていてもいいはずだ。